板書

白川静

解剖学二回目。今日は教授でなく講師の先生が

  • 骨学総論
  • 関節・靱帯学総論
  • 筋学総論
  • 骨学各論
    • 脊柱
    • 胸郭


について授業をした*1のだが、さすが解剖学第二講座(って、言わないのか、今は・・・正しくは「解剖学講座超微形態科学分野」)。教授以下総員、きちんと板書をなさる。


もっとも今日は、上にも書いたようにさらりと流して話をする感じであるので、実際に細かい部分を押さえて覚える作業は生徒個々人次第となる。先生は、


「高校までと違って、大学では学習ではなく学問をするのだから」


と言ってプリントも配らない。まあ、おっしゃることはごもっともだが、別にプリントをもらえなければ学問、というわけではなかろう、記憶の作業をどれだけ効率的に行うか、というのは未だ学習の域を出ないのではないか、などと考えながら、黒板にかかれた「頸椎・胸椎・腰椎の形態的な違いの図」などをノートに引き写していく。


思えば、記憶のプロセスにおいては入力メソッドを増やすことが必須なので、ただ見ているだけではとても記憶など無理である。だから、板書を写させる、というこの古典的なやり方は(学生が自主的に教科書やアトラスから図を写さない限り)、今もってその有効性を失っておらず、新奇な学説や貴重な発見を発表しているのでない限り、発表者としての教師の役割は、どれだけきれいに板書を書き生徒にそれを書き写させるか(あるいは、どれだけスムーズに口述筆記をさせるか)というただ一点のみに集約される、といっても過言ではなかろう。


混同されがちだが、後で勉強するためにノートをとる、のではなく、ノートをとること自体がすでに勉強なのである。どうも日本の学校は、このあたり(いやな言葉だが、「知の技法」とでもいおうか)のことを等閑にして、個人差をほったらかしにしておく傾向がある。大変いけない。大学では、そんなことは高校までに身につけておけというし、高校では、大学にはいるための勉強しかしていないのである。もしこの技法*2を高校までに身につけておけば、その後何があろうと、少なくとも知的生活を送る上では食いっぱぐれがない、いわばペンと紙があれば立派に生きていける人間*3が今よりは高い比率で育つはずである。


書き写す、という作業は決して侮れない。それは脳、あるいは思考という名の総体に情報を流し込む手段としては最高の効率性を持っている。かの白川静先生などは、いったい全部でいくつあるかわからない「漢字」を相手にもう何十年のオーダーでこのインプット作業を続けておられるが、先生曰く、


「見ただけでは身につかない」


のだそうである。だから先生は、漢籍をひたすら、写す。毎日、写す。そのために長生きしちゃってるのではなかろうか?と思わせる節すらあるほどに、写す。


翻って我々の解剖学だが、扱うのは人間の身体であり、そこにある部位の数などおそらく細かく数え上げても一万や二万*4を超えることはなかろう。しかも、なにも全部覚えなければならないわけではない。


自分の身体にある大事な部分の名前や機能が「身につかない」としたら、それこそ洒落にもならないではないか。

*1:カリキュラムの都合上、去年までは1年かけてやっていたことを半年ですませることになっているため、多少急ぎ気味:まあ、他の学校にはもっと短縮しているところもあるらしいので文句は言わない

*2:notetaking, critical thinking, brainstorming, creative writing, communicating, instruction, etc.

*3:ただし、こういう人たちは手先の器用さを犠牲にしている場合が多いので、そこも考えなければならない

*4:大学で専門書を読んでいる時点で、漢字も英単語もそれぞれ8000ずつは覚えたことになっている・・・少なくとも、計算上は