代弁

プロ野球の12球団にはそれぞれ熱烈なファンがいて、その中には著名人も多く含まれるわけですが、我が日本ハムファイターズのファンといえば


以上五十音順。ア行で終わってしまいます。私が仮に有名人だったとして、本名を入れてみてもやっぱりア行で終わってしまいます。


どうしましょう。読売には徳光和夫、中日には峰竜太阪神にはダンカン、広島には久米宏筑紫哲也、横浜にはやくみつる、西武には小倉智昭ソフトバンクには水島新司などなど、錚々たるメディアメンバーがそろっているというのに、我が日本ハムファイターズには伊集院光えのきどいちろう。ふたりともメディア人ですが、上のメンバーと比べるとそのメディア露出は今ひとつです。


ところが。


この優勝をきっかけにインターネット上で日本ハムファイターズ関係の情報をくまなく見て回っていて*1えのきどいちろうがもの凄くいい仕事をしていることがわかりました。北海道新聞の「連載 がんばれファイターズ」がそれです。


この「連載 がんばれファイターズ*2、日ハムファンにとっては全く完璧な人選の執筆者がそろっています。めぼしい人たちを挙げると、

//ja.wikipedia.org/wiki/西崎幸広" target="_blank">西崎幸広:言わずと知れた我が日本ハムファイターズが誇る「トレンディーエース」。近鉄阿波野秀幸とのトレンディー二枚看板は当時のパ・リーグ人気を不動のものにしました。背番号21。
//ja.wikipedia.org/wiki/佐野正幸" target="_blank">佐野正幸:札幌市出身のプロ野球作家。近鉄ファンですが、それ以上にパ・リーグに視点を据えた論評で執筆活動を続けています。
//ja.wikipedia.org/wiki/えのきどいちろう" target="_blank">えのきどいちろう:いとうせいこうと組んで故・ナンシー関を売り出したことで知られるコラムニスト。80年代に物心ついていた人にはその活躍ぶりはおなじみですが、実は1974年以来の日本ハムファイターズファンです。つまり、東京時代を生き抜いて、青ストライプもオレンジもFs時代もその目で見てきたというわけです。
//ja.wikipedia.org/wiki/広瀬哲朗" target="_blank">広瀬哲朗:90年代日本ハムファイターズを語る上で外すことのできない名内野手大沢啓二元監督の第一の子分で、主将を務めました。背番号1はもともとこの人がつけていたのです。
//ja.wikipedia.org/wiki/玉木正之" target="_blank">玉木正之:日本で初めて「スポーツライター」を名乗った人。スポーツライターといえば山際淳司*3が有名ですが、この人はパ・リーグの純粋な野球を世に知らしめるというよい仕事をしてきました。


ね、すごいでしょう。90年代日本ハムファイターズを支えた西崎と広瀬が書いている。佐野正幸がどういう人かは知りませんが、玉木正之は阪急に原体験を持つパ・リーグ贔屓です。そしてえのきどいちろう。わたしの記憶の中で、えのきどといえば



VOWネタ*4



でしかなかったのですが、次に引用する記事群*5を読んで私は我が身の至らなさを痛感することになったのでした。長くなりますが、三つばかり全文引用します。

北海道新聞 2003年10月3日 連載 がんばれファイターズ 9
東京ドーム最終戦 ファンの心に喪失感 <えのきど いちろう>



秋晴れの日曜日だった。ついにその日が来てしまった。ファイターズの東京ドーム・本拠地最終戦である。首都圏のファンにとっては、長年親しんだホームチームを失う日だ。


球団史をふり返れば、戦後、青バット大下弘を擁したセネタース張本勲大杉勝男ら猛者ぞろいだった東映フライヤーズと続いてきた在京球団の伝統が途絶える日だ。


開場前から東京ドームは大変な熱気に包まれていた。徹夜組・始発組を含む長蛇の列がすべてのゲートから伸びている。ユニホーム・シャツ姿のファンが多かった。球団創設時の「nhマーク」野球帽や、昔のユニホームを着込んだ人もいる。皆、思い思いのチーム・アイテムで「正装」して、別れの儀式にのぞむらしい。


僕は二十二年前の後楽園球場の光景を思い出した。一九八○年のシーズンだ。当時、パリーグは前・後期制で、ファイターズはいよいよあと1勝で後期優勝というところまでこぎ着けた。近鉄との直接対決のダブル・ヘッダーだった。プレーオフを残すとはいえ、六二年、東映日本一以来の「優勝」に手がかかったのだ。


その日もものすごい人の列だった。春日通りの都営地下鉄出入り口の方まで、外野席の列が続いている。いつも閑古鳥の鳴くライト・スタンドで観戦していたから、一体、どこにこんなにファンがいたのかと思った。


結局、その年は投手部門のタイトルを総ナメにしたスーパールーキー・木田勇がシーズン終盤、調子を崩し、優勝は翌年、江夏豊が加わって後になるのだが、僕にとってはあの日の後楽園球場が強烈だった。


スタンドの観客が応援慣れしていないのだ。ひとりで来ている人が多かった。チームの一大事に矢も盾もたまらず飛んできたのだろう。野次(やじ)もコールも散発的だ。満員の後楽園球場がただうわずった感情を抑えかねていた。


皆、自分だけのファイターズを抱えて、市井の片隅で生きる人だった。万年弱小球団を自分史に重ね合わせて、思いのかなう日を待っていた。仲間とつるんで大騒ぎするような応援はしたことがない。だけど、東京の、このチームを心ひそかに愛していた。


時代が流れてファイターズの東京本拠地最終戦だ。二十二年前の後楽園球場と、観客の世代は変わったけれど、本質は同じじゃないかと思った。皆、誰に頼まれたわけじゃなく、自分の実人生とファイターズを重ねている。


北海道の新しいファイターズ・ファンに知っててもらいたいのは、ホームチームを失うことの意味だ。どういう形にしろ、東京ドームを埋めた五万観衆のひとりひとりは、この先の人生を喪失感を抱えて生きる。


新生「北海道日本ハムファイターズ」のために、僕は二度とこの話はしない。だけど、東京のどこかに、静かにチームを想いつづけた人がいるのを忘れないでほしい。


ファイターズはラストゲームを芝草の四球押し出しで失った。よりによってこんな形だ。悔いの残る試合だ。だけど、われわれには来年、悔いを晴らすべきホームがない。セレモニーで球団旗が降ろされるのを黙って見つめるだけだった。

北海道新聞 2005年5月3日付 連載 がんばれファイターズ 81
名物オーナー死去 失った最高の「ファン」 <えのきど いちろう>



GWのオリックス戦は喪章をつけての3連戦だった。四月二十七日、ファイターズの前オーナー、大社義規氏が亡くなったのだ。九十歳だった。一代でハム・ソーセージ業界最大手の企業を築き上げたのだから、実業界の大立者である。けれど、僕らファンにとっては、あくまで「オーナー」だった。球場に足繁く通い、勝つとオーナー賞をフンパツし、チームが好調だと胴上げを心配してダイエットを始められたりする、日本一、野球の好きな名物オーナー。球界広しといえど、野球カードになったオーナーなんて珍しいのじゃないか


僕も一度だけ御挨拶する機会があった。ちょうど十年前のことになるけれど、東京ドームの千葉ロッテ戦で始球式を頼まれたのだ。九月の消化試合だったが、ファン冥利に尽きる。何だかわからないが、嬉しくて内野スタンドに両親を招待した。ファイターズの監督は名将・上田利治、4番打者は田中幸雄千葉ロッテボビー・バレンタイン第一次政権だった。


敵のトップバッター・諸積兼司内角球で空振りに仕留め(?)、雲の上を歩く気分でマウンドから降りたとき、球団職員に「オーナーを紹介します」と言われた。これはよく考えると凄いことだ。九月の消化試合にもオーナーは足を運ばれていたのだ。スポーツ紙の表現で、球団オーナーが観戦に訪れるのを「御前試合」と書くことがあるけれど、大社オーナーにとっては当たり前の日常だった


グラウンドレベルの貴賓室でくつろぐ大社オーナーは、野球ファンそのものだった。こちらとしては最大に緊張して「お会いできて光栄です」、「あぁ、どうもよろしくお願いします」と名刺交換をした。感動したのは失礼するとき、「よしっ」という声を背中で聞いたことだった。同じ大社オーナーの声だ。振り返るとファイターズの先発・岩本が打者をうち取っていた。そのとき、いただいた名刺は野球カードとセットにして大切にホルダーに保管している。


NHKで全国中継された三十日の試合で最も美しいシーンはゲームセットの後、勝ち投手・金村暁が「オーナー」の遺影を抱えて、クローザー・横山以下のナインを出迎えた場面だった。あれだけ熱心に球場に通い、無邪気に楽しんで、現場に一切口出ししなかったのは奇跡的なことだと思う。金村の意向でウイニングボールは大阪の葬儀に届けられた。ファイターズは最高の「ファン」を失ったのである*6

北海道新聞 2006年9月26日付 連載 がんばれファイターズ 147
最大のチャレンジ 心ひとつに応援しよう <えのきど いちろう>



いよいよ今シーズンのクライマックスだ。ロッテ戦の連敗は痛いが、そんなことを今、振り返っても仕方ない。ひとつだけコメントするなら、24日の試合、5回2死交代でブチ切れ、「絶対許さない、(監督の)顔も見たくない」と報道陣の前で感情をあらわにした金村にはエースの自覚が欠けている。


25年ぶりのリーグ制覇に手がかかった特別な戦局だ。個人成績など気にかけてる場合じゃない。僕は金村とは面識もあり、普段は本当にさっぱりしたいい男だと思うけれど、これでチームの勢いに水をさすようなら、こちらの方が「絶対許さない」。文句があるなら松坂や斎藤和のような「これがエースだ!」というピッチングをすればいい。東京のファンがどれだけ無念をかみ殺して歳月を耐えたか、北海道のファンがどれだけ夢をふくらませて日々を過ごしてるか、チームのエースは知るべきだろう。


さて今週、僕は思いきってインボイス西武ドームへ行くことに決めた。とりかかってる仕事で関東を離れられないというのもあるが、目指すは首位通過だ、西武には負けてもらわねばならない。札幌ドームへ行っても客席は満員だ、報道陣もごった返すだろう。僕が席を確保すれば誰かが試合を見られなくなる。それは一生記憶に残る大勝負だ。ファンはもちろん、記者だってそれを見てファイターズを今後ずっとひいきにしてくれるかもしれない。それが僕より若いファン、若い記者なら将来、チームをもり立ててくれる。


僕はDVDの留守録画を見ればいい。どうせ主要な試合は録画して、オフに意味もなく何度も見返したりするのだインボイス西武ドームでも、ラジオのイヤホンを耳にハメて、常に札幌ドームの動向をチェックする。身体は所沢にあっても心は札幌にある。そして、チームを信じている。


ファイターズの首位通過のために、僕が出来る最大の貢献、直接行動は、インボイス西武ドーム・三塁側の「声」のひとりとなって、西武にプレッシャーをかけることだ。


僕は球場に入れない多くのファンに呼びかけたい。別の街、別の場所に住む友よ、魂の兄弟よ、姉妹よ。ファイターズは僕らの夢だ。何ひとつウソのない、まじりっ気なしの夢だ。心をひとつにしよう。テレビの前で、ラジオで、家庭で職場で、一心にチームを押そう。僕らは過去25年で最高のチームを持っている。今週は、その最大のチャレンジだ


これほど日本ハムファイターズ・ファンの心情を見事に表現しきった文章を、私は他に知りません。他の記事でもえのきどは、

イースタン終戦が終わり、ファンの惜別コールも遠のいた後のことだ。鎌ヶ谷ファイターズ球場のスタンドには、ほとんど誰も残っていない。秋とは思えないほど暑い日だった。無人のグラウンドに、「ビッグバン打線の4番打者」・西浦克拓の姿があったという。


66番は子供を連れていた。子供を抱いてホームから1塁、2塁、3塁、そしてホームとダイヤモンドを一周した。かつてファンの歓声につつまれて一周したダイヤモンドを父子が巡る。それが記録には残らない「大砲・西浦最後のホームラン」だった。見えない打球はレフト場外の秋空に消えていったのだという。


がんばれファイターズ 101『イースタン最終戦 「戦力外」選手に思い複雑』より抜粋

あれから二週間あまりが経つ。西武・和田は日本シリーズでも大活躍だ。ファイターズは本拠地移転の04シーズンを、これ以上ない大成功で飾ったと人は言うだろう。それはその通りだけど、あの日、小笠原の背中を見た者は別の想いを抱く。


ライオンズ、覚えていろ。和田一浩、来年はこうは行かないぞ。早く来年が来ないものか。早く小笠原に野球をやらせろ。早くレフト外野席に景気よく『北の国から』チャンステーマをやらせろ。春までファイターズの試合がないなんて。春までファイターズが見られないなんて。


がんばれファイターズ 56『小笠原道大の背中  春まで試合がないなんて』より抜粋


など、涙なくして読めない名文の数々をものしています。最近の私は、リーグ優勝で目が醒め、プレーオフ通過で笑い、日本一で歓びにうちふるえ、そしてえのきどの文章で思い切り泣いているのです。日本ハムファイターズファンの誇り、20年間心の中に澱のようにたまった屈折を帯びたその誇りを吐き出すように、涙はじんわりと浮かんで止まらないのです。


しかしながら、これだけ豪華な執筆陣を迎えて連載を続けている北海道新聞は偉いと思います。さらに偉いことには、北海道新聞には道新スポーツというスポーツ紙もちゃんとあるのに、この連載、一般紙の方に掲載されているのです。

*1:仕方ない、宮崎では待っていても何も得られないのだから

*2:スッキリしていて素晴らしいコーナー名

*3:江夏の21球」であまりにも有名

*4:えのきどいちろう、なんてちょっと考えれば「えのきど いちろう」であることは明白なのだが、一般的な知名度の低さから新聞雑誌上ではよく「えのき どいちろう」または「えのきど どいちろう」という誤植が見られ、宝島社の雑誌『宝島』の一コーナーVOW(おもしろ看板や誤植などの投稿コーナー)によく投稿されていた

*5:きじ・の・むれ

*6:だからこそ、日本一の夜、大社啓二オーナーが故大社義規オーナーの写真を持って胴上げされているのを見て、私はそれまで必死でためこんでいた涙をとうとうこらえることができなかったのだ