電脳

jcjil2005-06-29

今朝は大幅に寝坊。なぜかというと、

    • 今日提出の班レポートをまとめるという大役を仰せつかっていたから
    • その最中に人を不愉快にさせるメールが来てプリプリ怒ったから

昨日寝られなかったのである。二つ目の方はさておくとして、一つ目について言いたい。


お願いだからデジタルデータで寄越せ


どういう事かというと、このレポート*1は43問の記述式小問題*2を6人単位のグループで分けて解答し、それをまとめるというものだったのである。デジタルデータでくれれば統一編集も可能なのだが、

    • 「編集」という概念がない
    • よって、手書きのコピーを渡してくれる
    • しかも、人によって用紙サイズがA4だったりB5だったりする

という体たらくなのである。これは困った。そして全部打ち込んだ。去年から繰り返し


出来ればデータで、無理ならA4で


と口を酸っぱくしているわけだが、改善の余地が見られないばかりか、


パソコン苦手ですぅ


とか、言う*3。本当なのか?


私が初めてパソコンなるものに触れたのは1993年、アメリカに留学したときであった。当時私は17歳で、最初の出会いはApple社のMacintosh Classic II


 美しいとは思わないか、君


はっきり言って、使いやすいとはお世辞にも言えない代物であったし、当時出来たことといえば

ぐらいであった。ワープロなら中学の時から使っている*4し、ゲームならファミコンがあるし*5、印刷なんか印刷屋がやるものと相場は決まっていた。それでも、学校の課題*6は「タイプ打ちが原則」であったため、必死で使おうとしたものだ。ちなみにその頃Computingのクラスをとっていた同級生たちは、ヒュンダイのAT互換機などを使ってフォートランとかC言語アメリカの地図を書いたりしていた。宇宙から来た人たちに見えたものだ。日本では理系のオタクしか近寄ろうともしなかったコンピュータなのに、バスケットボールのユニフォームを着た子供がホイホイとプログラムを書いているのだから。


日本に帰ってきてすぐ受験勉強をし、首尾良く受かったので通っていた塾で教材作成のアルバイトをした。払った月謝を取り返すつもりであったが、それ以上にパソコンを使って仕事をしてみたかったのである。作業内容はデータの打ち込みであり、アメリカでTypingの授業をとっていた私はブラインドタッチが出来たため同期の女子より早く仕事を上げることが出来たりしてちょっと鼻高々であった。しかし、男尊女卑の校風だったため、その子のタイプミスは全て私のせいになった。使っていたのはWindows3.1と一太郎。仕事だから弄っていたが、これを自宅に買うかといわれたら丁重にお断りする代物だった。


1994年、大学にはいると、Apple社がとびきりの誘惑を与えてくれた。Performaシリーズである。


 君、美しいとは思わないかい



友人はこれを素早く購入し、レポートなどを作成してみたりソリティアにはまってみたりしていたので、頗るうらやましかった。ただ一つ問題なのは、多少スムーズになったとはいうものの広告にあるように何でも出来る、というわけではなく、やはり機能は前出の

の域を出ていなかったということであった。ほかにも占いソフトやお絵かきソフトはあるにはあったが、どちらにせよ陳腐でちゃちく、当時の30万円をはたいて、というよりその30万円をまず稼いでまで買うものではなかった。代わりに私は海外を旅したり、車の免許を取ったりした*7。1995年にはWindows95が発表され、猫も杓子も、といった風情でパソコンの所有台数は一気に増え、そのころPerformaとWin95機を手に入れた叔父からもらって初めて私が所有したEpsonの286と386系は、部屋の飾りとなっていた。そりゃそうだ、使えないから買い換えたんだから。


1996年、卒論ゼミに入った私は、これを機会にどうにかMacを手に入れてやろうと親と交渉、無事にPower Macintosh 7200/120をコミコミ26万円程度で手に入れた。


 君は永遠に美しい


今考えるとなんだその程度、というスペック*8だが、この機械は私に夢と希望と優越感を与えてくれた。だってとうとうMacを手に入れたのだ!しかし、機能的にはあまり充実しておらず、第一私が全くの機械音痴*9だったもので、残念ながら十分に使いこなせていたとは言い切れない。


Windows 98が発表されたのは1998年、IT革命が始まったのは2000年。私は当時25歳であった。二代目のMaciBookを購入した頃である*10


 オレンジ色のパソコンだなんて!


このころからパソコンに名前を付ける様になった*11。2000年というと、今の同級生はちょうど中学生ぐらいのはず。あのころは連日テレビで「小中学校にパソコンが導入された」だの「インターネットがISDNで云々」とか、華々しくやっていたではないか。全部嘘だったのか。それよりも何よりも、


君たちはゆとり教育を享受したはずではないか


ゆとり教育=IT教育、みたいな事をさかんに言ってたような覚えがあるのは私だけではあるまい。とにかくテレビや新聞は大げさで嘘つきなので*12、それにだまされていた方が悪いとは言えるが、問題はそこではなくて、今の同級生がパソコンを使えないし使う気もない、ということである。


私と彼らの何が違うか、考えてみると

    • 私の時代はパソコンも幼稚であった
    • 故に、パソコンの進歩に併せてこちらのスキルを上げる暇があった
    • それよりも何よりも、パソコンを使うという行為自体が憧れの対象だった

のに対し、

    • 彼らが分別が付いたときにはパソコンは大人だった
    • そればかりか、インターネットも家庭にしっかり普及しはじめていた*13
    • それよりも何よりも、パソコンを使うという行為は「必須」とされ始めていた

ということになる。要するに、無理強いするより気を向けさせろ、という教育の大テーマにぶち当たってしまうのである*14。いったいいくら無駄にしたんだろう、文部(科学)省。


とにかく今後、特に医療現場では省力化・平準化・遠隔地や患者の移動への対応などのために電子カルテや医療データベースが本格的に導入され始めるわけで、そんな折りに、パソコン苦手、とかいってられないだろう、オイ、と思うのであった。これじゃ、新しい種類の医療ミスが起きるよ、必ず*15

*1:生化学

*2:問題例:Outline the arrangement of respiratory complexes in the electron transport chain.

*3:まあ、可愛いから許すが、もしかして俺は口車に乗せられているのかしらん?

*4:当時うちは自営業で、文書作成のためにFujitsu OASIS30 AX-CDがあった

*5:尤も、私はファミコンをもっておらず、故にテレビゲームはへたくそなので好きではなかったし、今でも好きではない

*6:1993年当時のケンタッキー州公立学校では、卒業試験の代わりに「ポートフォリオ」なるものを提出させていた:決められた期間内に研究をしたり、レポートを書いてそれをまとめて教育委員会に提出(勿論提出さえすれば単位はもらえる)しないと卒業できない、というもので、留学生とてその適用の例外ではなかった

*7:と、こう書くとさも自分で稼いだかのように聞こえるが、全くの親がかりである

*8:なんつったってハードディスクが1.2GBである

*9:今でもそうである:分からないことは調べるようになっただけだ

*10:ここから先は自分で稼いでいる

*11:当時の同僚の影響:iBook tangerineはダイダイ色なので、Dianaであり(OS積み替え6回、HDD積み替え2回を経てまだ十分に使える)、今の愛機はiBookG4なのでIngrid

*12:北朝鮮は地上の楽園だった

*13:1995年当時、インターネットブラウザはMosaicNetscapeの前身、だっけ)ぐらいしかなく、私はそれを見るに友人を訪ねてわざわざ藤沢くんだりまで出かけていったものである:当時の私は、SFCを蹴ったことを激しく後悔したものだが、今となってはま、そんなこと、どーでもいいんですけどねー

*14:因みに、最初Macintosh Classic IIに物怖じしていた私に初老の国語教師(女性)が言った一言は、「あんたが触ったぐらいで壊れるようには出来てないのよ、コンピュータは」であり、その後私はコンピュータは素人が弄ったぐらいでは壊れないと信じているが、これは全く正しいアドバイスであった

*15:現に私は、カニにあたって救急受診したとき、医師が電子カルテで薬の用量を間違えてクリックしたのを訂正させたことがある